錦糸町楽天地シネマズでギャレス・エドワーズ監督の「ゴジラ」を観る。
前回アメリカで作られたゴジラは、日本製のものとは似ても似つかぬ風体のものであったが、今回のはイメージに近い。ビキニでの水爆実験がゴジラ登場のトリガーになっているあたりも、日本のオリジナルに則ったものだ。ただ、このゴジラは地球人の味方という設定になっている。
敵のムートーは、ギャオスみたいな顔をした手足の長い怪獣。日本の怪獣はたいがい胴長短足であるから、そのあたりの違いは国民性からくるものなのか。
CGを駆使した映像は迫力があり完璧だ。ゴジラの見え方は従来のものとは違う。カメラはあらゆる角度からゴジラを捉えており、臨場感がたっぷり。ただ欲を言うならば、映像はもう少し泥臭いほうがいい。音楽もそう。
見所は、ムートーを追いかけるゴジラと米戦艦の、ホノルルからサンフランシスコへの巡航。もちろん、ふたつの町は気持ちよく壊滅である。何かを破壊することは人間の本能であるな。
グリュミオーのヴァイオリンでバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ2番を聴く。
宮城谷昌光が「クラシック千夜一曲」の中で、生活が本当に苦しいときは音楽は聴けない、ただしバッハのシャコンヌと音楽の捧げものは例外だ、というようなことを言っていた。いま生活は苦しくないが、それが頭の片隅に残っていたので聴いてみることにした。
このパルティータは全部で5曲からなる。当時の組曲形式の慣例で4曲の舞曲があり、最後にシャコンヌが配置される。最初の4曲が数分なのに対し、シャコンヌはこの演奏で13分を要するから、異形の音楽といっていいだろう。主題と30の変奏からなり、ひとつの変奏はだいたい4~8小節。それを知るとせわしないように思うが、気にしなければ継ぎ目はほとんどわからない。
30の変奏はニ短調、ニ長調、ニ短調と3つにわけることができる。モチーフは最初のニ短調の最後と、最後の二短調の最後に回帰し、全体を有機的にまとめあげている。
メロディーの面白さと曲想の深さにおいて「ゴルトベルク」に匹敵する音楽だと思うし、ゴルトベルクが長いという向きには、こちらを選べばいい。
グリュミオ―はベートーヴェンやブラームスといったドイツ系のものに加え、サン・サーンスやヴュータンといったフランス系の作品に対して、いつも変わりない清廉さをもって演奏するヴァイオリニストだ。このバッハも清々しくてスタイリッシュ、かつ情熱的であって悲劇の味も申し分ない。
こうした中庸にしてノーブルなヴァイオリンの演奏は、いつの時代になっても受け入れられるであろう。
1961年3月の録音。
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