川上弘美の「溺レる」他を読む。
これは愛欲を描いた短編集。
「さやさや」は、蝦蛄を食いに行った後に情事をしようと思いながらも行く付く先が見当たらず、女が道端の草むらで小便をする話。まどろっこしさが手に取るようにわかる。
「溺レる」は、アイヨクに溺れた男女が駆け落ちをする話。心中しようとしてもできない無力さが切ない。
「亀が鳴く」は、同棲していた相手に出て行かれた女の回想。彼が置いていった亀がときどききゅっと鳴く。うちのミドリガメは鳴かないけどな。
「可哀相」は、サディストの男から逃れられない女の悲哀を描く。遊園地で焼きそばやビールをすする姿が間抜けだ。
「七面鳥が」。『四十歳にもなった女はめったに美人なんて言われる機会がないんだから、もっときちんと説明してよ』というセリフがいい。さっきテレビで観た若村真由美は美人だったけど。
「百年」は、心中して死んだ女が成仏できずにクヨクヨ回想する話。男は生き残り87歳まで生き延びるが、それを淡々と、でも腑に落ちなさそうに話す佇まいがいい。
「神虫」は、ひとりの女をめぐるふたりの男の馬鹿さ加減を描いた話。変人と思っていた男に三人でやることを咎められて落ち込む馬鹿な女の話でもある。
「無明」は、不実を犯して不死の罰を受けた男女の話。不死なのに、若いカップルではないあたりが面白い。
パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるシューマンの交響曲3番「ライン」を聴く。
ノン・ヴィヴラート奏法によるシューマンのシンフォニーをいままで何回か聴いた。あまりいいものはなかったので、今回も期待していなかったが、裏切られた。
この演奏の良いところは随所にあるが、ふたつに絞るとひとつめは1楽章である。
第1ヴァイオリンのキザミがなんといっても素晴らしい。瑞々しくてきっぱりしていて、それでいて優美。空間が青空のように広がっている。音楽が生きている。
ふたつめは終楽章の冒頭。ここで指揮者はレガートを採用している。これは私が知る限り、ジュリーニ以来である。ジュリーニはフィルハーモニア管とロス・フィルとのふたつの録音においていずれもレガートを採用しているが、ことに後者は目覚ましい効果をあげている。
ヤルヴィのこの演奏はそれに負けていない。とても、自然に演奏している。あたかも楽譜にそう書いてあるかのように。驚くくらいに柔らかくて優しいのだった。
宮崎駿ではないが、これを聴いている間、生きることは素晴らしいということを少し実感した。
カップリングの「春」も、とてもいい。
パーヴォ・ヤルヴィ指揮
ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン
2009年12月、ベルリン、フンクハウス・ケーべニックでの録音。
ペドロのジャンプ。
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