アンネローゼ・シュミット(pf)高橋秀実の「はい、泳げません」を読む。
小さいことから大きなことまで、面白いノンフィクションを書かせたら右に出るものがいないであろう著者が、自ら実験台になったルポである。
泳げないこと。小学生から中学生まではわりと切実な問題だけれど、社会人になってしまえば、とくに意識することのないことだろう。そこにあえて著者は迫る。
本人は言う。「四十歳を過ぎて『泳げるようになりたい』と決意したのかもしれないが、水にはいると、そのあたりの経緯もよく思い出せない」
この緩い感覚はこの著者独特のものである。しかし、泳げるようになるには、けっこう高いハードルがあるのだった。スイミング・スクールのコーチや同僚との邂逅を経て、山あり谷あり、紆余曲折しながらの訓練が続く。
読んでいるうちに、泳ぎにはあたかも武術のような、自分の戦いがあることに気づく。考えてみれば、それは泳ぎに限ったものではなくて、どんなスポーツにも共通のものかもしれない。そのなかで印象に残った場面。
「自分のことだけを考えていると、姿勢が前屈みになります。背中が丸まってくるんです。もっとプール全体を見て下さい」。
そうだ、ワタシは歩くとき、前屈み気味なのだった。そしてここでいうプールとは世間に他ならない。自分のことしか考えていなかったのだろうか。そうかもしれない。
そういったことは、意外と、身体的な動きから喝破されてしまうものかもしれない。
シュミットのシューマン。初めて聴いたが、とても面白かった。
音がひとつひとつ粒立っているから、明快で気持ちがいい。音楽を聴く上での評価は、構造というか論理の明晰さも重要ではあるけれど、まず最初は音の良さである。感覚的に快感であること、これが大きいのではないだろうか。そういう意味で、この演奏はいい。
このピアノ、テンポをけっこう動かしていて表情が大きい。そういうやり方だと、シューマンの霊感めいた雰囲気が希薄になることがしばしばあるけれど、この演奏はピアノの音そのものがクリアーなので、テンポを動かしても、どっしりとした存在感がある。しばしば、シューマンの音楽のキモはあいまいさと言われるし、それは間違いではないと思う。
シュミットの演奏は、音が明晰だから、そういったあいまいさとは異なったスタイルのように思えるが、こうしたピアノだからかえって、シューマンの幻想味がほのかに立ち昇るのである。
矛盾しているようだが、その矛盾がまかり通るのがシューマン。それがこの音楽の面白いところ。
1975年、ブルネン・シュトラーセ・スタジオでの録音。
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