アンドレ・ワッツ(Pf) 小澤指揮ニューヨーク・フィル坂口安吾の「日本文化私観」を読む。
かなり久しぶりに読み返す。最初に読んだ時には、この言葉がとても強烈に心に残った。
「京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ」。
鋭い切れ味。徹底した合理主義がすがすがしい。たしかに、薬師寺や東大寺がいくら良くたって、電車がなくては話にならないなあ、なんて。
今から思うと、これは確かに過激だけれども、なかなか反駁できないところは、現代化の流れにうまくのったものだったと言えなくもない。
このあたりが、この本の主題だと思うのだけど、他にけっこう雑談めいた話が多いのだ。今回読み返してみて、そのあたりが気になった。特に、家に帰る、ということの後ろめたさについての記述である。
「『帰る』ということは、不思議な魔物だ。『帰ら』なければ、悔いも悲しさもないのである。『帰る』以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることができないのだ」。
なるほど、たしかに「帰る」ことは、いささかの悲しさがあるかもしれない。なんていったら女房に怒られるわけだが、このあたりは、夜に期待する男の悲しい習性というべきか。
若きワッツと小澤のラフマニノフ。
ワッツは一度聴いた。岩城指揮東京フィルとのブラームス1番。オーケストラはときおりずっこけていたけれど、覇気の漲る演奏だったと記憶する。
最近はこの人の評判をあまり聴かないが、おおむねピアニストというものは、若い時期を見計らって花火のように一瞬輝くものだ。
リヒテルやホロヴィッツみたいに半世紀に渡って活躍する人種は、ほんのひとにぎりでしかない。ピアニストのキャリアは短くてなんぼのものだ。
ワッツはそのあたりを心得ている。のかどうかはわからない。若さは武器である。そして、このラフマニノフはなかなかである。ホロヴィッツみたいに、作曲家をねじ伏せるような強引さはないものの、細かいところに手が行き届いて、かつ雄弁なピアノである。いきいきとしている。冴えた音が美しい。
小澤の伴奏も、丁寧でみずみずしい。弦楽器の厚みを生かして見事な立体感を作っている。全体的にワッツよりも穏便だが、若さはマッチしている。
できれば、3楽章はカットせずに演奏してほしかった。
1969年の録音。
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