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伊集院静の「贈る言葉」を読む。
これは、成人式を迎えた若者と新入社員に向けた、サントリーの広告文を集約した本。
本来であれば、アル中で競輪狂いの著者が、どんな破天荒なことを書いているのか期待したいところ。
だが、所詮は企業の広告文だから、内容はつまらない。とても、つまらない。
「仕事とは何だろうか。君が生きている証しが仕事だと思う」。
カッコいいこと言うなよ。仕事は、飯の種にすぎない。知っているくせに。
企業とタイアップすると、このていたらくだ。私が敬愛するダメ人間の伊集院でさえ。
リリングの演奏でヘンデルの「メサイア」を聴く。
これはモーツァルト編曲のものであり、歌詞はドイツ語。
モーツァルトは、ヘンデルの4つのオラトリオに対して編曲を行っている。「メサイア」もそのうちのひとつ。いずれも、オランダのヴィーデン男爵の依頼によるもの。
ヘンデルの原曲そのものが既に完成されたものだから、どういう意図で依頼したのからライナー・ノートを読んでも判然としないが、具体的にどの部分が通常と異なるかをあげていきたい。
全曲を通しては、管楽器(フラウト・トラヴェルソ、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン)のオブリガートがかなり幅を利かせている。
この試みはかなり面白い。合奏に色彩感が加わり、響きが厚くなっている。あたかも「フィガロ」のような軽やかさの味わいも隋所に聴くことができる。これはアリだ。
「そしてレビの子孫を清め」では、最初合唱が歌うところをソプラノとテノールが歌っている。後半になると合唱になる。
このように、編曲版は通常合唱で歌われるところをソロに任せている個所がいくつかある。
「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた」もそう。合唱ではなく、4声のソロで歌われる。好きな曲なだけに、ここは気に入らない。合唱をもっと聴きたい。慣れの問題なのかもしれない。が、何度聴いても納得できない。楽想が合唱に合っているように思う。
「シオンの娘よ、大いに喜べ」では、ソプラノがテノールに置き換わっている。これは気に入らない、というより許せない。英語版では「Rejoice」のあの曲である。カークビーの歌唱が忘れられないし、他にもいい歌を歌うソプラノはいる。ここは絶対ソプラノだ!
「彼のくびきは負いやすく」も前半がソロパートで歌われる。ここはあまり違和感がない。ただ、クラリネットがにょろにょろ出るのが不思議な感じ。
「ラッパが響いて」では、ラッパが響かない。薄く鳴ってはいるが、前面に出てこない。その代わり、ホルンとトロンボーンを交えているので音色の鮮やかさはある。しかし、ここはガッツリとトランペットを鳴らせてほしいところ。
気づいたところはだいたい以上。もちろん他にもあるだろう。
リリングの演奏は、いきいきとして素晴らしい。ことに淡い情感がこもった合唱がたまらない。ただ、モーツァルトの編曲ということを考慮すると、とても好き、とは言えないかな。
ドナ・ブラウン(ソプラノ1)
コルネリア・カリッシュ(ソプラノ2)
ロベルト・サッカ(テノール)
アラステア・マイルズ(バス)
ゲッヒンゲン聖歌隊
シュトゥットガルト・バッハ合奏団
1991年の録音。
バー。
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