西村賢太の「小銭をかぞえる」を読む。
私小説とはなにか。
自分が出会ったことや考えをそのまま文章にしたものがそうなのか。全て事実でなければならないのか。フィクションを入れてはいけないのか。
同じ純文学でも、この西村や車谷は私小説作家と言われる。でも、村上龍や川上弘美はそうではない。もしかしたら村上の「テニスボーイの憂鬱」だって、事実の話かもしれないじゃないか。
そうなると、私小説という近代日本文学のひとつの核とも言えるジャンルは、自己申告制だということだ。
そんなわけで、この「小銭をかぞえる」は著者の実話に基づくらしいが、まあ、ひどい話である。
同居している女のヒモになっている家に、女の実家から大金を借りている始末。
金がないのに一人で寿司を取り、大げんかをする。女から、暴力を振るったら警察に訴えると言われると、「お巡りが来るまでにはおまえを殴り殺しといてやるから」「卵巣を蹴潰してやるぞ」と反撃する始末。
こういうことを、人は世間に公表できるのだな。
公表できる力、それは身を削る作業だろう。他人をも。
デニス・マツーエツのピアノでリストのロ短調ソナタを聴く。
これは彼がカーネギー・ホールで演奏した模様を収録したアルバムに収録されている。
プログラムは以下の通り。
シューマン:子供の情景
リスト:ピアノ・ソナタロ短調
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番『戦争ソナタ』
以下アンコール
リャードフ:音楽玉手箱
スクリャービン:練習曲嬰ニ短調
グリーグ/ギンスブルク編:ペール・ギュント~『山の魔王の宮殿で』
これは、あきらかにホロヴィッツへの挑戦である。
本演目はもちろん、アンコールのスクリャービンもホロヴィッツは得意としていた。
事実、マツーエフはホロヴィッツを尊敬しているようで、「ホロヴィッツに捧ぐ」というディスクを2003年に録音している。
さて演奏はどうかといえば、技術的にはなんら申し分がない。しかも音も美しい。ことに速いパッセージでは、ひとつひとつが磨き抜かれた真珠のような輝きを放っている。
そしてホロヴィッツに比べてどうかと言えば、これは好みであるが私はホロヴィッツをとる。ホロヴィッツの1977年のライヴ録音には多少の瑕疵はあるものの、圧倒的なスケールの大きさと破天荒なまでの色彩感がある。このソナタの録音史上おそらく最大級の演奏であって、他の追随を許さない。
そんな録音だから、比較してしまうとどうしてもマツーエフの分が悪い。
でも、そんな無粋な比較を抜いて真摯な気持ちで耳を傾ければ、これはかなりレヴェルの高い演奏である。
マツーエフ、ホロヴィッツとはまた違う形で、これからも名演奏を残して欲しいものだ。
2007年11月17,19日、ニューヨーク、カーネギー・ホールでのライヴ録音。
ペドロ。
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