髙橋秀実の「ご先祖様はどちら様」を読む。
これは、「自分はいったい誰の末裔なのか?」という疑問から自分の先祖を辿る過程を描いたノンフィクション。
髙橋流の「ゆるノンフィクション」はここでも健在。ぬるま湯のような文章が延々と続くかと思っていると、自虐ネタで爆笑を誘う。そんななか、なにげなく核心に触れるあたりはさすがの技。
そもそも、自分の両親はふたりであり、そのふたりは4人の両親から生まれている。これを20代遡ると100万人になり、27代前には1億人を超える。このことから、「日本人の半分は藤原鎌足の末裔らしい」との話もあながち嘘じゃないような気がしてくる。
戸籍やら寺やら占い師やら役所やらの取材を重ねて、自分は平家の末裔だとの情報を得る。
ところで著者は、平家物語の冒頭を中学の頃に暗唱できた。ことに「ひとえに風の前の塵に同じ」という一節に感銘を受けた。
「当時私は柔道をやっていたのだが、試合に出ても「勝ちたい」と思ったことはなく、むしろ「いずれ負けるだろう」と感じていた。実際、個人戦の大会などでは優勝するひとりを除けば全員いずれは負ける。いずれ負けるなら早く負けて家に帰りたい、などと思っていたのである。
私の感性は平家に由来していたのだろうか」。
ところが、話はここで終わらない。
彼岸の今、読んでもらいたい本である。
クラウディオ・アラウのピアノでリストの「ロ短調」ソナタを聴く。
これは太い演奏。色彩感をあまり強調していないため、いささか乱暴に言ってしまうと墨筆のひと筆書きのような落ち着きと豪胆さのあるピアノだ。
そうはいっても白と黒だけではない、星の数ほどのグレーが、ときには渾然一体となったり、ときには天空を舞うように散りばめられた音色である。
録音は適度に残響を取り入れており、余韻が美しい。フォルテッシモになっても濁らず、厚い響きを堪能できる。
テンポと強弱の変化は大きい。が、とても自然にこなれているので全く違和感はなく、あたかも最初から楽譜に書かれているように思わされる。またこの曲が単一楽章でありつつも、各フレーズが緊密に結びあっていて全体の統一感にかけていないというポイントを明瞭に示してくれてもいる。
アラウは、リストの高弟であったマルティン・クラウゼに師事したので、リスト直系のピアニストと言える。こういう演奏を聴くと、改めてリストという音楽家は技巧をひけらかすような人ではないことを、今更ながらに思い知らされて恥ずかしいばかりだ。
作曲家の深い思索と天性のインスピレーションを、アラウは多様な読みこみで掬い上げている。
考え抜かれた巨匠の技である。
1970年3月、ベルリンでの録音。
冷やし中華とツイッター始めました!雨。
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