マーラー「大地の歌」 ワルター指揮ニューヨーク・フィル ヘフリガー(T) ミラー(A)東野圭吾の「容疑者Xの献身」を読む。
この推理小説では、石神という数学教師がキーマンとなっている。
「ずんぐりとした体型で、顔も丸く大きい。そのくせ目は糸のように細い。頭髪は短くて薄く、そのせいで五十歳近くに見える」。
小説では石神のこの容姿が、物語の重要なポイントになっている。この部分を省いてしまったら、物語そのものの迫真力がだいぶ損なわれるのじゃないかと思う。
映画版では堤真一が演じているから、かなりイメージが違う。おそらく、だいぶ映画向けに脚色しているのだろうけど、そのあたりどのようにカバーしているのか、心配な反面、興味深くもあるのであった。
ワルターがニューヨーク・フィルを振ったスタジオ録音である。
ワルターの「大地の歌」は、ライヴを含めていくつかのディスクがあるが、これが最後の録音だという。
それにしても、「大地の歌」くらいの曲になると、泣く子も黙るようなゴツイ巨匠指揮者のさまざまなCDがあって、タイプは違えど、いずれも濃い演奏だ。
指揮者の思い入れ、歌手の気合、レコード会社の思惑などが交錯するのを見るのは楽しいけれど、聴くのにもそれなりのパワーが必要といえる。
オーケストラがやたらと雄弁で重い響きを聴かせるカラヤンやジュリーニ(BPO)、朴訥だけど歌手が突出しているクレンペラー(PO)、明晰で見通しのいいインバルやショルティ(CSO)、泣きそうなバーンスタイン(IPO)など、個性的な演奏は枚挙にいとまがない。
ワルターだって、フェリアーやパツァークとやったウイーン・フィル盤では、重厚で勢いの強い録音を残している。ジンセイに未練ありありの、やる気マンマン演奏だ。
ところが、このニューヨーク盤はどうだろう。
実に渋い。
表向きは、淡い色彩の水彩画のような色合いがユニークで面白い演奏だといえる。
だが、それ以上に気になるのは、演奏からじわじわと滲み出てくる諦念感だ。
ここにあるのは、「ワシはもういいわ」と言い残して、いままさに去り行こうとしているものの決意に満ちた後ろ姿のようだ。
まったく欲というものが見当たらない。
「ここをこうすれば効果があがるだろう」とか「もっと遅くすればスケール大きく聴こえるだろう」などといった小細工が見られないのだ。ただ、淡々と演奏している。
それは、ときどきキャバクラで散財している、欲ばかりの自分を諭してくれているようにも聴こえる。
ワルターも、若い頃は遊んでいたのかもしれない。
だから、晩年になってこの境地に達することができたのだろうか(遠い目)。
まあそれはともかく、ワルターの毅然としたやり方にヘフリガーとミラーの歌唱もみごとに答えている。アクのない、素直な歌声はオーケストラによくなじんでいる。あたかもひとつの楽器のようだ。
ニューヨーク・フィルはバランスの取れたいい演奏で、ことにホルンと木管が冴えている。終楽章で、ハープの伴奏に乗って奏されるオーボエの響きは、俗なものからかけ離れており、泣けるほど美しい。
1960年4月の録音。
PR