夢枕獏の「笛吹き童子」を読む。これは、「陰陽師 醍醐ノ巻」に収録されている短編小説。陰陽師の安倍晴明と笛の名手である源博雅のコンビが、京の都で発生する怪奇な事件を解き明かすというシリーズのひとつ。
ある夜、月の光に連れられて博雅は笛を持って京の街を歩く。梅雨も今日で終わりだなあ、とか思いながら笛を吹く。
後日、博雅と同じくらいか、あるいはそれを凌ぐほどの笛吹きがあらわれたという噂が広まる。博雅にはアリバイがあるので彼ではない。やがて、その笛吹きの正体がわかり、面白がった帝はふたりのどちらがうまいのかを競わせようと、会を設ける。博雅の笛は朱雀門の鬼から譲り受けたもので、もしこの勝負に負けたら、鬼は博雅を殺して笛を奪うと言っている。
勝負は意外な展開をみせる。
このシリーズを久々に読んだ。やはり面白い。ページをめくるのが惜しくなるくらい。平安の都に思いを馳せずにはいられない。
文ごとに改行がなされているので、あまりにもあっけなく読めてしまうのが難点といえば難点だ。
フラチェスカッティのヴァイオリン、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの演奏で、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴く。
フランチェスカッティのディスクは、古いくせになかなか廉価盤にならないので、そういう意味でもこのエディションを購入した甲斐がある。と、昨日書いた。このシベリウスはブラームスとカップリングになっており、こちらも聴き逃せない。
ブラームスもそうだが、何度聴いても飽きない。この演奏は、今日だけでもう3回聴いている。音の伸びやかさ美しさはブラームスと同様。たんに音がきれいだけというスタイルならばこうはいかないだろう。なにかがあるはずだが、ブラームスではよくわからなかった。
シベリウスでは、演奏の綾みたいなものが、とても適切に工夫を施されているのが、わかる。それがはっきりしているのは終楽章。
第1主題の弾き方は、なにか生き物が蠢いているようだ。こう書くと、なんか虫みたいなものがぞわぞわと湧き出てきそうな絵が浮かぶが、そうではなく、ヴァイオリンの音色は美しいままで、微妙な有機的ともいえる変化をつけているのだ。ほんのわずかのアクセントをつけていて、それが一本調子になることを回避している(このメロディーは悪いものではないけれども、やや単調だと思う)。
今のところ把握できていないが、そういった工夫を他の部分についても施しているのだろう。ブラームスも、そうに違いない。
だから何度聴いても飽きない、というこれは仮説。
バーンスタインのオケは、しっとりとサポートしている。出しゃばらず、引っ込まず。いい塩梅である。静かに燃えている。
1963年1月、ニューヨーク、フィルハーモニック・ホールでの録音。
おでんとツイッターやってます!さらば日本その3。
本を出しました。
お目汚しですが、よかったらお読みになってください。
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